自分とは。



先日、【自信がない。嫌われたくない。人の目が気になるあなたに】という記事を書いたのですが、あの記事の内容のように割り切るようになるまでにはたくさんの葛藤がありました。


こんな自分では嫌われてしまうと、人に会うたびに思ったものです。


去年、SNSにこんな投稿をしていました。



昨日は、にこらすで秋田の日本酒仲間と0次会からの友人宅のピザパで飲みすぎて酔っ払いになり恥ずかしい。あ、いつもか

いつもだから恥ずかしがるのはやめようかと考えてすぐに、恥ずかしいことをするのをやめるという選択肢も思いついたが


どうかな、それはわたしをやめるということではないのか。

おっさんと呼ばれても、ベッド以外では周りが言うおっさんのように冗談ばかり言い、島崎和歌子のように大声で笑い、おっさんが出来ないようなセクハラを堂々とし

いい加減マジで訴えられたらどうしよう

とか

そろそろ店出禁にされるかも

という不安と隣り合わせながらも楽しく生きていきたい思いもある。
しかし、果たしておっさんとベッドに寝たがるおっさんはなかなかいないのだ。

いいのかそれで。
女として生きてみようかな来年から。


よし、イッてみよう!ヤッてみよう


この投稿はふざけているように見えて、真面目に悩み考えた末の自分に対する答えであり、宣言でもあったのです。


どうかな、それはわたしをやめるということではないのか。



この言葉がここで出てきたのは、よく行く居酒屋のカウンター仲間に


「わたし、いつもカウンターで知らない人に絡んで話したり、下ネタ大声で言って馬鹿笑いしてるじゃないですか。迷惑だろうから、なおしたいな。やめたいと思ってる」

というようなことを言ったときに、真剣な表情で返って来た


「でも、それは君じゃないよね」


という言葉が大きく関わています。


わたしじゃないって、なんだろう。何が自分で、何が自分じゃないんだろう。


そう真剣に考えました。


厨二病です。



しかし、時間をかけて、自分について真剣に考えることは大切な時間です。何となく生きて行くよりも、解決することで目の前は明るくなり、新しく見えてくるものがあります。



人は、自分の経験から自分が楽であったり成功したと思うやり方を行動パターン化し、失敗したと感じた行動を避けようとする傾向があります。マイナスと感じたこの行動も、何かプラスの部分があるからこそ、そうしているのだろうと考えました。


【下ネタの効用と、使用方法】という記事に似たことを書いていました。



実際に、わたしはカウンターでたまたま隣合わせただけの人に絡んだおかげでカウンター仲間になり、わたしを知ったうえで「それは君じゃないよね」という、今の自分に繋がる大切なひとことを貰ったのです。


これに加えてて、わたしはサバサバしているように見せることを、やめました。



女として生きてみようかな来年から。




先に書いたように、サバサバしているように見せてきたのは、下ネタをやることにも通じています。しかし、



女を捨てて、自分を犠牲にしてでも笑いを取りに行く。


この精神が自分の許容量を超えた行動を引き起こし、恥ずかしいを生んでいたのです。


自分を嫌いになってまで、人に好かれようとしなくても良いのです。


他人が自分を好きになってくれる保証はありません。誰かに好かれれば、誰かに嫌われることもあり、それは、どんな自分であっても変わることはありません。


また、自分が嫌いな自分を好きになってもらっても、その好きを素直に喜ぶことはできません。


自分が好きな自分であることが、自分としての自信【自分はどのような人間なのか】を理解した自己に繋がります。

先日、こんなことを書きました。メンタル系の投稿は特に、解釈の仕方は人それぞれ、経験してきたことや成熟度によって受け取り方が変わるので、もう少し詳しく説明しようと思います。

これは、「SNSでの交流以上に、人に会って対話することは人生を豊かにする」
「心の中にあるものを、言語化して整理することで、気付き見えるものがある」
「人には、生まれながらや、環境によって持った性質がある。そして、その性質は、性質の違う他者や、性質の似た他者との心を開いた対話によって気付きを得ることが多い」ということを言いたかったのです。

求めるものは同じに見えても、その中身はひとりひとり違うのです。同じに見えても、その人の性質によって叶えるために向く手段も、中身も違うし、違っても良いのです。

自分の性質に逆らわずに、その性質を生かして生きていくことは、それだけでもう、その人にしかできないことです。